明治維新の闇⑥ファミリービジネス(1)大久保利通、牧野伯爵

小室圭と婚約した眞子様はニセモノ




公開されている写真から、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。

①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③偽物が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。
公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。


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信子妃・吉田茂・麻生家・白洲家の謎と疑惑の維新⑥

※続きです。

ご立派な信子さまの華麗な家系図♡

 

①大久保利通

未修正の大久保利通

肖像画を写真に収めたものと思われる「肖像写真」ではないのかな。

出世すると、いろいろ修正できるみたいです。

行動パターン

①極貧時代は西郷家の世話に⇒のちに西郷隆盛を粛清

②藩主に取り入り出世⇒藩主を裏切る

⓷薩摩藩を指導し討幕⇒薩摩藩を滅ぼす

関わる人間を裏切り破滅させながら頂点に登った「維新三傑」

大久保の最終目的

①権力も権威も天皇一極に集中させ天皇と明治政府を一体化、

②大久保が明治政府を支配

③同時に大久保が宮内卿に

結果、大久保が、天皇=日本と一体化し絶対権力になることを目指したようである。

暗殺されなければ、最後は天皇を裏切ったとおもわれ。

 

wikiより抜粋

(幕末・貧困時代)
1846年 藩の記録所書役助として出仕。

1850年 お由羅騒動では父・利世とともに連座して罷免され謹慎処分。

以後、大久保家は貧しい生活を強いられる。

大久保の子供の頃は食事時には西郷家にお邪魔してご飯を食べてたらしい。

島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ記録所に復職⇒御蔵役に⇒西郷とともに徒目付になり精忠組の領袖として活動。

斉彬の死後→久光に取り入り→勘定方小頭格→御小納戸役に抜擢。藩政に参与できるまで出世。

(倒幕・久光の側近として討幕)

1862年

久光を擁立して京都の政局に関わる。

公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主・松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。

御小納戸頭取に昇進⇒久光側近に⇒御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進。

1866年

第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否。

1867年

雄藩会議の開催を小松や西郷と計画。

四侯会議を開催するも、慶喜によって頓挫させられる。

公武合体路線⇒武力倒幕路線へ。
小松、西郷とともに公議政体派(土佐藩の後藤象二郎、寺村道成、真辺正心、福岡孝弟、浪人の坂本龍馬、中岡慎太郎)との間で

①将軍職の廃止、②新政府の樹立等に関する薩土盟約を三本木の料亭にて結ぶ。

が、思惑の違いから短期間で破棄。」

(三藩盟約)

武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は、長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明け、京都において薩摩藩(大久保・西郷)と長州藩(広沢真臣・品川弥二郎)、広島藩(辻維岳)が会し出兵協定である三藩盟約を結んだ。
10月14日、正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出すのに成功。

(ただしこの密勅には偽造説もある)

大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名.

倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功。

しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たした。

そのため、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古のクーデターを計画して実行する。

王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張。

 

(明治維新後)

1868年

太政官にて大阪への遷都を主張。

1869年

参議に就任、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。

1871年

大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊。

征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立。

明治六年政変にて西郷らを失脚させた。

1873年

内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握る。

学制や地租改正、徴兵令などを実施。

「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進。

1874年

佐賀の乱が勃発。ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。

台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡った。交渉の末に、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印。

1875年

太政大臣の三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出。
大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれる。

当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。

また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。

1877年

西南戦争で京都にて政府軍を指揮。

また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。
その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。

(暗殺)

1878年

石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、杉村文一、脇田巧一および島根県士族・浅井寿篤により紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて殺害された。

享年49〈数え年〉、満47歳没。

墓所は東京都港区の青山霊園にある。

以上

 

②曽祖父・牧野伸顕

https://blogs.yahoo.co.jp/hikarumitsugirl/11247886.html

隠れカトリック教徒とおもわれ。もしかして、父の大久保もそうだったかも。

皇室とキリスト教

皇室とキリスト教

牧野宮内大臣は自分の信仰を明らかにしてませんが、欧州駐在中に娘(雪子、後の吉田茂夫人)が幼児洗礼を受けており、曾孫に麻生元総理がいますのでカトリックだと推定できるでしょう。(リベラル派の要職が次々と暗殺の対象になる時代だったのでキリスト教信仰の表明には危険がともなっていた)

(生い立ち)

大久保利通と、妻の満寿子の次男。11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米。フィラデルフィアの中学を経て帰国し開成学校(後の東京帝国大学)に入学。

東京大学を中退して外務省入省。ロンドン大使館に赴任し、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文と知りあう。

帰国後、太政官権小書記官、法制局参事官、兵庫県大書記官、黒田清隆首相秘書官、福井県知事、茨城県知事、文部次官、在イタリア公使、オーストリア公使等を歴任。

太政官権小書記官時代、伊藤博文に随行し北京にて伊藤と李鴻章との駆け引きを肌で感じたという。

オーストリア公使時代には、日本とギリシアとの通商条約締結、ロシアとの戦争を見越した情報宣伝操作、第1次大戦後の君主国の動向の調査などがある。

ヨーロッパにおいて、黄禍論の広まりを防ごうとした。

また彼は、イギリス王室外交の有効性を指摘している。

1907年

第1次西園寺内閣で文部大臣を務めた際、外交官時代の功績によって男爵を授けられた。

1907年

文部大臣時代の功績として義務教育の年限を4年から延長して6年とした。

第2次西園寺内閣で農商務大臣⇒枢密顧問官

第1次山本内閣で外務大臣

1914年

貴族院勅選議員に任じられる。

1919年

第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。

日本の次席全権大使として人種的差別撤廃提案を行っているが米国に拒否。

1920年

パリ講和会議の論功行賞により男爵から子爵へ陞爵、同時に旭日桐花大綬章を授けられた。

1921年

宮中某重大事件の影響で中村雄次郎宮相が辞任すると、牧野が宮内大臣に就任。

1925年~1935年

内大臣。宮相在任中の皇太子洋行、摂政設置、皇太子結婚などの任務挙行の功績により伯爵に陞爵。

牧野に対する天皇の信頼は厚く、15年後、多難な時期に退任の意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話がある。

1936年

二・二六事件の折には親英米派の代表として湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを襲撃されるが、孫である麻生和子(吉田茂の娘)の機転によって窮地を脱した。

(戦後)

第二次世界大戦下にあっても天皇の信頼は衰えず、数度宮中に招されて意見具申をした。GHQで憲法問題担当政治顧問のケネス・コールグルーヴ と会談し、情報を天皇に伝え天皇謁見を依頼したり、東京に帰った明仁親王に幕末の外交談や留学談、英米の政治家の懐旧談を語った。

1949年(昭和24年)1月25日死去、享年87。

死後ほとんど財産らしきものは残っていなかったという。

続きます

 

ニセモノが天皇に即位?