続きです。
お血筋の謎・島津家
コメント欄より
でれでれ草様。
記事に書かれていらっしゃる内容とは関係無い事柄なので、公開・非公開はお任せ致します。
今現在、様々に画策されている事柄等は、誰かが急に思いついたり、裏組織の独創的な一か八か的な計画であったり、、、では無いと、多分にお考えであると思います。
いくつかの試験的行為をした上で、実行する側が、まるで会社での日常業務を遂行する様に、確実に成功するフローチャートにのっとって動いているのだと思います。
江戸末期・明治初期の福岡藩黒田家を調べていて、薩摩藩島津家の藩主・島津重豪(しまづ・しげひで)が、そもそもの始まりではないか‥と感じております。
学校で習った近現代日本史は、私が知らなかっただけかもですが、本当に上っ面だったようです。
『蘭癖(らんぺき)』と言う言葉からです。
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蘭癖
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E7%99%96(Wikipediaから参照↓)
「鎖国」等と同様に、明治以降になって普及した後に、それ以前の「蘭癖」的人物もこの語で形容されるようになったものであろう。
吉雄耕牛・平賀源内・大槻玄沢らは、オーストリア領オランダ(ネーデルラント連邦共和国)が滅亡した1795年正月に、オランダ正月と呼ばれる太陽暦で祝う正月行事等の西洋式習俗を恒例行事としてスタートし、欧州にオランダが存在しない事を日本国内で隠し続けた。
そして、蘭癖の上級武士は、雇い主を失ったオランダ商館の存続を偽装し、さらには滅亡したオランダ国旗をアメリカ船に掲げさせて入港させ、オランダ国が存在しない期間、他の日本人を欺いて日蘭貿易を偽装した(詳しくは黒船来航を参照)。
このような蘭癖の存続と拡大は、オランダ商館長と最も密接な関係にあった島津重豪(しげひで)の画策を助けた。その画策とは、オランダ商館長であったヘンドリック・ドゥーフ著『日本回想録』によると、娘を将軍の正室として嫁がせることで幕府と薩摩藩を結合させ、諸侯を服従させようというもの。
蘭癖大名の分布としては、主に九州の外様大名が多い。
これはオランダに開かれた港・長崎が近く、蘭書や輸入品の入手が容易だったことと無縁ではないだろう。
その点、関東に所領を持つ譜代大名の堀田正睦はかなり例外的である。
このような蘭癖大名の典型例として知られる代表的な人物として、シーボルトと直接交流のあった長崎警固を勤めた福岡藩主の黒田斉清や薩摩藩主・島津重豪が挙げられる。
重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や、曾孫の島津斉彬もまた、重豪の影響を受けたためかそれぞれ蘭癖大名と称されるほどであった。
(参照終わり。)
まずは、長崎のオランダ貿易のオランダ東インド会社が、1795年のオランダ連邦共和国滅亡の後、解散しているのに、それを隠していたのが日本人側だった事が驚きでした。
そしてキーパーソンの島津藩主重豪(しげひで)
島津重豪
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA(Wikipediaから参照↓。)
老いてますます盛んな重豪は、曾孫の島津斉彬の才能を高く評価し、斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。なお重豪は斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がった。
ちなみに重豪は、ローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。会見したシーボルトは、「重豪公は80余歳と聞いていたが、どう見ても60歳前後にしか見えない。開明的で聡明な君主だ」と述べている。
天保3年(1832年)夏から病に倒れ、天保4年(1833年)1月、江戸高輪邸大奥寝所にて89歳という長寿をもって大往生を遂げた
(参照終わり。)
“シーボルトは、「重豪(しげひで)公は80余歳と聞いていたが、どう見ても60歳前後にしか見えない。開明的で聡明な君主だ」と述べている。”
※島津重豪筆ローマ字
この、島津重豪(しげひで)のWikipediaに出ている単語・人名を検索してみたら、この島津重豪(しげひで)「ものすごく若すぎ」記述はあちこちにあります。また、若干、出自がはっきりしてないようです。(両親共に早死。)
美智子さんの様に複数の島津重豪(しげひで)がいたか、途中で誰かと入れ替わった感があります。
性豪で、側室も多く、とりあえず数えたら庶子男女26人はいましたが、奥平昌高は、重豪(しげひで)の息子が養子に入り、大分県中津藩藩主になりました。
『蘭癖(らんぺき)』検索にも、出てきますが、昌高は、オランダネームまで持ってました。
また、中津藩は福沢諭吉の出身地です。
黒田長溥は、同じく重豪(しげひで)の息子が福岡藩へ養子縁組。
同じく蘭癖(らんぺき)です。
黒田長溥
http://nagaoka.blog.jp/archives/2308384.html(上記より参照。)
海防の見張り所を置き、志賀島など10カ所に砲台を急造して自家製の大砲を据え、守りを固めた。軍艦も大小130余隻をそろえ、これに大砲を積んで“無敵艦隊”を編成した。ところが、相次ぐ軍備拡充で兵隊が足りない。
目をつけたのが無給で使える農民だ。かり集めてにわか兵士に仕立て、連日大砲射撃の猛訓練を始めた。
島津家や、島津家から養子に行った福岡藩黒田家は、財政苦しい中、精錬所や近代軍隊を編成、訓練をしてました。その為、藩の武道師範・指南役の多くが職を失いました。
そして多分、“相次ぐ軍備拡充で兵隊が足りない。目をつけたのが無給で使える農民だ。かり集めてにわか兵士に仕立て、連日大砲射撃の猛訓練を始めた。”
とあるように、これが、先祖を遡れない“下級藩士”なのではないでしょうか。
財政逼迫で、石高も上げたいのに、農村にそんなに余剰人員がいるはずもなく、、近代軍隊のにわか兵士は、剣道の心得が無くてもなれるので、被差別部落民が多かったのでは、と想像します。
多分佐賀県鍋島藩ほか、外国からの脅威を感じて(表向き)近代軍備に走った諸藩は多かったのではと思います。
これを(表向き)としたのかは、多分、来るべき体制大転換に備えて、確実に江戸幕府を倒す為に国内有志を武装させておこうと、海外プランナーがそそのかしたと思ってます。
また、このブログ記事の下の方に、戦後、恨みに思っていた人達から、福岡市千代にある黒田家の墓が荒らされたとありますが、そこには、トタン屋根に石を乗せた住宅が広がる、「明日のジョー的」風景・世界が最近まで残ってました。
曾孫の島津斉彬は、、、その可愛がり様から、本当は島津重豪(しげひで)の息子ではないか‥‥と思います。
69歳になっても子を成したとありますし。
そしてWikipedia他、参考文献にありますが、
ヨーロッパ人から見た島津重豪(しげひで)
(Wikipedia)
オランダ商館長であったイサーク・ティチングの日本についての情報収集に貢献していた事が、フランスの博物学者で旅行家のシャンパンティユ・コシーニュ著「ベンガル航海記」に記載され、オランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。
そこには、将軍の義父がティチング氏と始終文通を行い、ティチング氏の目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させているとある[5]。
島津重豪は、娘を将軍の正室として嫁がせることで幕府と薩摩藩を結合させ、諸侯を服従させようと企てていることが、オランダ商館長であったヘンドリック・ドゥーフ著『日本回想録』に記されている
以上
島津重豪(しげひで)、ほぼほぼ、売国スパイ活動に思えます。
時の将軍・徳川家斉の正室の茂姫(広大院)も島津重豪の娘。(でも、母親は家臣の武家のお手伝いさん)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A4%A7%E9%99%A2
検索の枝葉を進めると、、陰謀を感じますが、島津重豪(しげひで)一人のアイデアでは無いと感じます。
プランナーがいて、仕込まれてる感じです。
後に、久邇宮家に俔子(ちかこ)妃が島津家から嫁ぎ、良子(ながこ)様がお生まれになりました。
鹿児島県の方々や誇り高い歴史をおとしめる意味ではなく、突然変異的な島津重豪(しまづしげひで)は島津家らしくない感じです。
薩摩藩は他国人や国境警備に厳しいところと思ってましたら、重豪(しげひで)がどんどん他国人を入れ、女も他国からどんどん嫁にもらえとか、急にちょっとあり得ない政策を取っています。
まるで竹中平蔵のようです。
その後の調所広郷笑左衛門(ずしょひろさとしょうざえもん)の藩財政立て直し策、、も竹中平蔵っぽいです。
英米は、まず、九州の諸藩の背乗り→乗っ取りをしていたのではと思います。
西郷隆盛も二人説がありませんでしたか??
長い長い戦いのようです。
今になって、出口わ仁三郎氏の日月神事の言葉が理解出来ました。
以上
ありがとうございました。
「調所広郷笑左衛門」
島津家は、琉球=沖縄に侵攻し、それはそれは苛酷な「砂糖地獄」をつくりましたが、やり方が、インドにおける英国支配や、インディアンの弾圧などに匹敵するほど、あまりにえげつなくて、日本人離れしてます。
北海道開拓を担ったのは、北海道におくられた囚人であり、そして、旧同和地区の方々だったそうです。募集してもだれも応募がなく、同和の方々を無理やり集めて送り込んだといわれています。北海道のアイヌ弾圧も苛酷でしたが、被差別民だった方々が、いきなり支配層になると、こうなるケースが多いようです。
日本社会の破壊に喜びを感じている竹中は同和であり、小泉は朝鮮部落出身のヤクザの家系です。
砂糖も中毒性があり、ソフトドラッグといわれている商品です。後年、アヘンで財を成したサッスーンたちと合流するのは、必然だったのかもしれません。
「時の将軍・徳川家斉の正室の茂姫(広大院)も島津重豪の娘」
増上寺の改築に伴い、埋葬されている歴代将軍やその妻妾の遺骨が検証された本を読んだことがあります。
そのなかに、茂姫の頭蓋骨もあったのですが、頭蓋骨からみるに目が大きいんですね。頭蓋骨からみるに白人とのハーフのような顔立ちだったと思われます。
和宮の頭蓋骨もありましたが、日本の貴族にありがちな顔の幅が細く、西洋人なみに鼻根が高く盛り上がり、鼻筋が通った顔立ちで、島津貴子さんににた顔立ちという印象でした。
島津家、薩摩など九州の方には、縄文人的な要素が強く、顔立ちのはっきりしたかたが多いとは聞いていましたが、案外、茂姫が白人のクオーターか、ハーフだった可能性もあるかもしれませんね。あくまで可能性です。
しかし、当時の天皇や大名は、限られた人間に囲まれて暮らす習慣があり、限られた人しか会うことができず、重臣、家臣が拝謁するときも、はるか後方に下がって平伏し、決して君主の顔をみることはできない存在でした。
すり替え、なりすましは、限られた側近さえ押さえれば、簡単だったと思います。
いったん、玉座、藩主の座につけば、それをかぎつけた家臣がいても、「不敬罪に値する罪」をつくりあげ、書付ひとつで家臣の命を奪い家をつぶすこともできました。
九州から実験的に長期間をかけてプレ維新が行われた可能性はありますね。